「今」もまた、あの19世紀・欧に匹敵する歴史の大転換期である
黒田 麻由子(ノンフィクションライター)
19世紀ヨーロッパにおける二重革命は歴史の大転換点といえる。フランス革命に代表される「市民革命」、技術革新と合理化の「産業革命」がそれであり、それ以前の中世的なものから、新しい価値への劇的な変化を見せた象徴的なできごとであった。
中世的、つまり形至上学的で、封建的なもののみかた、人間存在のあり方が主流であったそれまでの時代にはなかったさまざまな変化が市民社会に見られるようになり、必然的に、続く混乱は避けられない状況にあった。時代の課題は、新しい思想をいかに定着させるか(進歩)ということとともに、社会の混乱をいかに鎮めるか(秩序)ということにおかれた。
フランス革命では、既存の秩序の解体から、個人としての人間を生きる「権利」が主張され「人間の自我」が問題となる契機になった。古い秩序が買いたいし、自由主義・急進主義にあおられた人々から個人主義思想が生まれ、実証主義が大きな影響力をもった。さらにその反動として保守主義が生まれた。
フランス革命が生んだ片方の矢であるこの保守主義は、「純然たる個人などありえない。いかに小さくとも社会集団の中でしか個人は存在しない」とする現実的な思想を掲げ、社会と道徳は伝統社会にこそ存在するとした。「個」と「コミュニティ」は相反するものではなく、コミュニティがなければ「個」の発展などありえないとする考え方だった。
これは、現代社会学が定時する問題ときわめて似た思想であることがわかる。「個」を追究した結果、由来のコミュニティを半ば喪失し、よりどころをなくしかけた不安な現代人がそれを乗り越えるために、「所属」の実感のもてるコミュニティを自分自身で構築したり、それに向けた模索を続けていることは現代社会学が論証することの一つだからである。
いっぽう、産業革命では産業の工業化・機械化がすすみ、技術のあり方が劇的に変化した。いわゆる「便利さ」「合理性」「大量生産」へとすすむ中で、人々は「人間不在」の労働環境を問題にするようになる。
科学主義は科学的根拠に基づく「理にかなった」ことだけを重要視した結果、目には見えず、論証することはできないけれども、旧来には人間として信じられてきたもの、大事にされてきたものは隅に追いやられてきてしまった。それらの中には中世的な価値ばかりではなく、それ以前の「神の時代」における呪術的信仰などが含まれる場合もある。
考えてみれば、新しくかたちづくられたコミュニティやその中の人間を観察することによって、自分を知り、社会を知ることを目的とする現代社会学には、当然のように、二重革命における「進歩」の概念をかえりみる視点も必要も含まれることになるのである。
つまり、保守主義と現代社会学には、密接な関係が認められる。比較的新しい学問として捉えられる「社会学」の生成にはヨーロッパ二重革命が生み出したあらゆる思想が折にふれ、顔をのぞかせ、いまだ答えの出ない歴史的問いが見え隠れする。現代社会学はこれを大前提として展開されるべきと考える。
二重革命が人間にもたらした精神的な美徳の部分、社会における人間の尊厳を守ること、これに異論を挟むものは少ない。ただ、これはいかにして現実のものとなるだろうか。
旧式な秩序の解体により、人間の伝統的な集団の力が弱まること、その結果社会を構成する原始的な個人は、自立したそれではなく、ただ狂奔させられた大衆にとってかわられるであろうと保守主義者たちは予測してい。現代社会学の問題点のひとつもまた、この事態の検証にある。
今、社会学を考えるとき、この歴史上の革命の意味とその前後の思想化の主張を整理しなおすことは有益であろう。実証主義と保守主義の狭間で揺れ動いた彼らの社会思想を受け継ぎ、いかに継承・発展させることができうるかにも、社会学の学問的意味がある。
形至上学的な思想と、実証主義的思想の間に、私たちが見落としてきたものがあるかもしれない。「個人と社会」「人間と労働」といった問題はもちろん、今とくに「神と人間」「宗教と人間」といったテーマにスポットを当てる必要があると考える。(2003年執筆)
後記:個人とは何か 社会とは何か 革命とは何か 労働とは何か 平和とは、戦争とは。
そして何より「活きる」とは… いま、私たちが苦しみながら考えなければいけないことは、何でしょう。少し前に書いた未発表の文章ですが、今こそ、多くの人に読んでいただきたいと思い、掲載します。
私の周囲の幾人もの人が口をそろえるように、すでに「終っている」のかもしれない。だけど、精神の深遠を掘り続けることは、地球規模ではなく宇宙規模で行われうるものです。一人ひとりが思想を創造することこそが、頼みの時代です。
最近のコメント