混沌から、いざ、パラレルワールドへ ~二つの映写会から~

3・11後の日本の局面

                        黒田 麻由子(ノンフィクションライター)

 2001年9月11日がアメリカにとってそうだったように、2011年3月11日より、日本はがらりと新たな局面に突入した、と思います。「まさか、万一にも起こることはない」と多くの人が信じていたはずの「想定外」の原発事故と、その直後の「ただちに影響はない」との、長く皮肉な流行語のようになった枝野幸男氏(当時官房長官)の言葉で、多くの人びとは、「国家は必ずしも国民を守らない」と気づけたように思います。その意味で枝野氏は貢献したのです。「平和ボケ」と揶揄されて久しく、おとなしいはずの日本人も、ようやく太平洋戦争の敗戦以来、隠蔽されていた真実を目の前につきつけられたのでした。ちなみに枝野氏は自身の子どもたちをすぐに関東から避難させていたとの、真偽は定かでない情報も聞こえています。それが本当なら…枝野氏の拠点、大宮で繰り広げられている「枝NOデモ」のように、非難されても仕方ないと思います。

 原子力発電所が爆発した、とは何を意味するのかを知ったのは、当時3歳だった私の息子が頻繁に大量の鼻血を出し始めた頃からでしょうか。いえ、考えてみれば3月下旬、ほんの少しの時間、自宅のまわりで外遊びをしていた彼が、なぜかすぐに帰宅して、そのまま玄関であまりにぐったりしているので、熱をはかると38度以上あった日を自責の念とともに思い出します。その急激に上昇した熱はやがてすぐに下がり、風邪というにはおかしな、これまで二人の子の子育てをしていてあまりなかった症状を見てもいました。

 同じく3月下旬には、和光市内にある知人の有機農家の畑から、土の中にいたはずのヤスデの大群が隣家のブロック塀を越えて、ぞろぞろと敷地に入ってしまったという話を聞きました。ヤスデは土壌の有機物や枯葉とそれにつく真菌を食べる生き物です。知人は「敏感な生き物だから土壌の状態が変わったことがいち早くわかったのだろう」と無念をにじませて話しました。自分の子どものように30年間、土づくりに励んだ人です。急激に上昇したわが子の熱と、やわらかな土の家を出て、慌てて危険な人間の家へと逃げていくヤスデのすがたが重なりました。

 改めて1995年からの自分を振り返る

 そんなこんなで、2011年の春先、放射性物質が原因で、私はすでに呆然自失のパニック状態にあったのだろうと思いますが、ただ今考えてみると、どちらかといえば「諦念」の中にいたといったほうが適切かもしれません。知人に「もう長く生きられないのなら、そのときまでずっと子どもたちと離れずいたいな。この国で学校も保育園も行かせる必要を感じない」と漏らしたこともあったからです。

 話は少し飛びますが、ルポルタージュ作品を執筆するという活動の中で、戦後民主主義が引き起こす矛盾について考えさせられる機会がそれまでも何度もありました。自分も受けてきた戦後教育では、明らかな嘘や故意の隠蔽を次世代に教え、そうしなければならなかった日本の悲しさを感じることもしばしばでした。取材などで、沈黙や、重ねられた嘘が引き起こす断絶や世代間の隔絶など日本人同士の関係を見聞するたび、わが身の体験をも照らして胸をひりつかせることもありました。だから私は20年もの間、飽くことを知らず「各地を歩き、人の話を聞いて、調べて書く」という仕事に情熱を燃やせたのでした。

 1995年1月、故郷の阪神大震災のときは23歳で仕事を始めたばかりでした。神戸市東灘区の倒壊した家屋の間を、がれきの間にあちこち顔を出す釘を踏まないよう歩きながら、成人まで自分を形作ってきたものがガラガラと崩れた感に打ちひしがれたものです。敗戦後にシベリアに抑留したという老人と出会い、震災の避難所になっていた体育館での地べたで新聞紙を敷いてシートと毛布だけで眠る長い避難所生活を強いられて、「捕虜時代を思いだす。あのときのほうがまだましなように思える」と無表情で語り始めた彼が「人生で二回もこんな目にあうとは、なさけないとしかいえない」と搾り出すように言葉を発しました。頷くよりほか言葉を返すことができず彼の内面をしっかりととらえることもできませんでしたが、かろうじて置きどころのない無念さは共有することができました。人生の終盤をむかえた80歳近い(当時)の老人がこのような思いを抱かなければならないこの世界とは何なのだろう。同じ頃、私の母は、「敗戦後の神戸の焼け野原とまったく同じ光景」と言いました。見たことのない戦後の光景が脳裏にはっきりと浮かびました。さまざまありましたが阪神大震災は私の人生において、大きな転換期であり、悲しみでした。ただどこかで「これからなのだ」と思えてもいました。そんな自分に何が書けるのかと思って生きてきた二十年間だったのです。

 

映画『みえない雲』からはじまる

 絶望感の中の一縷の希望、今回は、それさえも抱くことができません。福島から離れているのだから、というけれど、放射能は県境を知っているのでしょうか。当時13歳と3歳、二人の子どもたちの顔を交互に見ながら、あるいは西日本にでも避難すべきなのか考えることも多くなりました。放射能に気をとられて、ふだん、気を使っていたはずの合成洗剤や添加物にも逆に無頓着になっていました。武蔵野の面影の残る森が好きで、武蔵野に残った緑をぜひとも守りたいと思って移り住んだ自宅の前の森に、樹木や花木を見てもいとおしさも何も感じなくなっていました。これが「半壊した」国で子育てをしている一人の構成員の、いつわりない心情でした。心底から「もうだめだな」と思ったのです。表面だけをおもに見ていた時期といえるでしょう。

 こんな状態でしたので、本格的に現状に関する情報収集をし始めたのはわりあい遅く、2011年5月になってからだったでしょうか。ある市民活動団体が主催する映写会にはじめて参加し、ドイツ発の映画「みえない雲」を見ました。チェルノブイリ原発事故をヒントとしてつくられたフィクションでしたが、主役を演じる女優は、そのチェルノブイリ事故が原因で心臓疾患をもっているそうです。映画はフィクションではあっても、いわゆるリアル世界で、チェルノブイリ・ハートをもって生まれた女性が演じていました。原発事故の発生で原子雲が近づいてくる中、利己心の塊となって逃げ惑う人々が描かれます。原発事故のまちに出張に行っていた主人公の母はまきこまれ、あっけなく死んでしまいます。残された反抗期のさかりである姉と、アトピー皮膚炎をもつ小さな弟が自転車に乗って逃げていくシーンが、その道々の自然や風景がときにのどかであることでよけいに切なく映りました。そしていま、自分が育てている現実の子どもたちに重ねあわせずにいられませんでした。やはり、何とかして、ここから動かなければなりません。

 

映画『荷車の歌』をみて

 情報収集をしていて、広島県出身の作家、山代巴氏の広島原爆以後を描いた作品の中に、福島原発事故後の「今」に参考になることをたくさん見つけました。「原爆に生きて」など大変参考になります。当時はわりと知られた作家でもあり、作品の中に、映画化されているものもあります。それは上述の市民団体でも何度か映写会をしている山本薩夫監督の映画『荷車の歌』ですが、もとになった小説の原作とかなり違っています。映画になったとき、作家・山代さんが作品を通して言いたかったことがじゅうぶん表現されているとは言いがたいと思います。しかし、作品はひとたび世に出たら、著作者のものであると同時に、読む人のものです。プロの書き手は、不特定多数の読者がどう受け取るかについては、賞賛されるにせよ批判されるにせよそれ以外でも、すべて受け止める覚悟はできているものです。映画化に際しても同じことがいえます。原作者が映画監督や俳優にならない限り、原作に忠実に映画化されたとしても、物語の細部が変わってくるのは当然だと思っています。

 映画作品にかかわる複数の制作者の、小説の読みの深い浅いという、おのおのの意識レベルというか、ステージが違う中で、いかに原作に近づいていけるかとの挑戦である場合もあれば、原作をもとにして、あえて少し違う物語をつくりあげようとすることは今でもあります。おそらくこの映画はさまざまな理由で後者だったのでしょう。もちろん原作者としては言いたいことが出てくるとは思いますが、映画化に限らず、作品は著者を離れて自分自身で歩いていくものです。原作に忠実な映画の佳作が作れればそれに超したことはないでしょうが、たとえそうではなくとも、映画が文学作品に触れるひとつのきっかけとなるならよしとする考え方もあります。映画を見てから原作を読んでみようとする人も多いからです。このような実情を含めても、原作者が自作の映画化を最終的に喜べなかったとしたら、その検証はひとつの重要な情報となるはずです。後世の私たちは映画と原作を比べることで学びとることができます。こう考えると、ここでも、すべてはよき事、なのではないでしょうか。

 

人生の春夏秋冬

 さて、映画『荷車の歌』では戦前・戦後を生きた一人の女性の生き様が描かれています。そこに戦争の悲しみや農村の問題点などが織り込まれています。前述したように、原作とは違うところが多いのですが、原作者の意図を積極的にとり入れていると思われる部分は、全体の構成が春夏秋冬にわけられるところです。

 映像的にも桜の季節で始まる春の情景は、主人公セキの結婚ではじまります。親や奉公先から勘当されての自分が選んだ相手・茂市との結婚は、障害が多いほど夢や希望も携帯します。貧しい農村において、厳しい仕事を選ぶ輝かしい幕開けなのです。

 すべてを捨てて結婚したのですが、婚家では女手ひとつで息子を育ててきた姑にいびられるというよくある展開となり、それでも夫のために我慢して前を向いていく女の姿を描いています。とはいえ、夫は味方とはならず、生まれた第一子の女の子を喜んでももらえず、現実の生活の疲れや矛盾も経験します。それでも夫とともに、男に混じって毎日、往復10里の道を荷車を引いて歩きます。荷車引きのとちゅうで食べるむかごご飯やとうふ汁のおいしさが現実的な幸福のひとつとなって迫ってきます。ただ生きる、懸命に生きている季節なのです。

 続く「夏」は、「子育て」です。婚家でかわいがってはもらえない不憫な娘をつれて西国巡礼に出るところがメインです。お遍路の後、信心のご利益があり、3歳の娘はようやく歩けるようになります。「わが子が一歩歩く」という経験は当人にとっても劇的な世界観の変容であるでしょうが、親にとってもまったく歓喜と安堵の瞬間です。観音さまの前でヨチヨチと、でもしっかりと一歩を踏み出す娘・オト代は、長じて、荷車をひいて空腹となった母の胃袋を満たすため、木の洞に米のおにぎりをしのばせておく孝行娘に成長します。夫の茂市が米騒動にまきこまれて囚われの身になったり、念願の男の子が生まれて夫や姑が喜んだりと物語は展開します。目の回る忙しい日常が子どもの成長とともに描かれていきます。

 「秋」の項は文字通り収穫です。人生の収穫期ともいえるでしょうか。姑と折り合わない勝気な長女オト代をわが子の幸せを願いながら養子に出したり、新しい家を建てて引越しをして、念願の荷車問屋となるなど、転機が訪れます。セキにとっては長く苦しめられてきた姑が病に伏し死を看とります。子どもたちは成長し、それぞれの場で仕合せをつかみます。子どもたちがそろって帰省したまつりの盆踊りでの華やいだ気分は、セキのつかの間の幸福感の象徴でした。すぐに夫の不義を知るところとなり心乱れる時間がやってきます。

 そして「冬」。かつての農村ではよくあったという「妻妾同衾」のリアルが描かれます。茂市は本妻・セキとともに住む家に妾を住まわせることにしたのです。長い苦労が報われて子どもも巣立ち幸せになるはずだったのに、セキは一気に生き地獄となってしまったのです。さらに息子が戦死したり、広島に原爆が落ちて娘が行方不明になるなど、がらがらと崩壊が進みます。茂市は原爆病と疑われる症状で死んでいきます。セキは妾をゆるします。精神的にも肉体的にも死を迎え、それを超えたところにある何かを見つけだすことが課題となってくる季節です。

 最後のシーンでは、次世代を生きる孫たちを荷車に乗せて力強く歩みだすセキの姿が描かれます。とちゅう、ようやく復員となった息子・虎男に出会います。ふたたび「ただ生きる」春に戻ったのです。四季のある日本では、人生を春夏秋冬にたとえることはわりと多く、この映画でもそれがセキの人生を通してあらわされています。

 幾千通りの読みを超えて

 ひとつの映画として、とりたてて論じるところのない作品であったかもしれないけれども、封切時、多くの人たちが映画館に足を運び、感動した事実は否定できません。私たちは生きるなかで、それぞれ具体的な夢を描き、到達するかどうかはわからないけれどもそれを叶えるためさまざまな努力をします。運よく到達できたとしたら、やがてそこに向かった熱情は冷めてしまうものです。夢を叶えるためがむしゃらに歩み進んできていたとしたら、その間に落としたものなくしたものの多さに気づくのもこのときかもしれません。そして、自分がゴールだと思っていたその目的は果たしたけれども、すぐに別の困難がたちはだかっていたということもよくあります。人生を振り返って、実際に何をしてきたのかわからなくなってしまう日も多くの人が経験ずみではないでしょうか。それでも人間は死んでもいくし、生きてもいく。何かを掴み、また離しながら。映画はそれらのことがありふれた形にせよ描かれていると思います。

 繰り返しになりますが、映画では人生の春夏秋冬を伝えるだけで、当時の観客をある程度、感動させることができました。それぞれの観客の日々の糧にしてもらえたことでしょう。その中の幾人かは、改めて原作を読み込むことに挑んだ人もいたはずです。そして凡庸な読みに接したからこそ、さらに深い読みへ移行する時機を得たかもしれず、私もその一人だと思っています。

  3・11後の私たちはいま、これまで培ってきたもの、これまで依ってきた価値観がすべて死んでいくさなかにあります。2012年7月1日の大飯原発再稼働は、おどろき絶望したと同時に、あらためて腹をくくる、覚悟を打ち立てることが私はできました。実際にはめったに出さない高熱を出して寝込んでしまったのですが。

 すべてを「よきこと」に転じることは、人間の意識なのではないでしょうか。原発推進勢力が、いくら「夢よふたたび」と思ってあれこれと策を弄したとしても、始まっている大きな流れを止めることはできません。まだ半壊かもしれないが、国が全壊する日は遠くありません。それでも国敗れて山河ありです。いまに生きる私たちはそれをおそれず経験していくのです。国家は絶対のものではありません。国家は最大のフィクションという言い方もあります。リアルは「いま、ここ」にいる私です。もう一度ニュートラルに立ち戻り、自分自身の手で荷車をひいていくのです。

 ホームタウンである農村で、いっぱいに積んだ荷物をまちまで運び、帰りはからっぽになった荷車をひいて帰る、冬は炭俵を編む、その繰り返しの中でセキの人生が編まれていったように、生きることに意味はなくとも価値はあります。死んでも生きても、私たちはおしなべて価値ある存在だからです。また、誤解をおそれずに言うなら、私はあなたで、あなたは私なのです。

 私はセキであり茂市でありオト代であり虎男なのです。妻であり夫であり親であり子であり妾であり姑であり…その地点に立てたとしたら、表層から移行し、決して2011年夏のように「もうだめだな」とは思いません。

 いま一度映画の中のセキの愛児にならって、パラレルに、最初の一歩を踏み出してみたいと私は思うのです。こころあるたくさんの仲間たちと、かたく手を結んで。(おわり)

 

◆映画 みえない雲

http://info.movies.yahoo.co.jp/userreview/tymv/id326159/

 

◆映画 荷車の歌

http://info.movies.yahoo.co.jp/detail/tymv/id138691/

 

◆小説「荷車の歌」

 

http://www.amazon.co.jp/%E8%8D%B7%E8%BB%8A%E3%81%AE%E6%AD%8C-%E5%B1%B1%E4%BB%A3%E5%B7%B4%E6%96%87%E5%BA%AB-%E7%AC%AC2%E6%9C%9F3-%E5%B1%B1%E4%BB%A3-%E5%B7%B4/dp/4770510136

 

◆評論「原爆に生きて」

 

http://bookweb.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/wshosea.cgi?W-NIPS=9910461404

 

 


黒田 麻由子 (ノンフィクションライター)

主著に『墓石の下には眠らない』(朝日新書・08年)『冒険者忘れえぬ一言』(NHK新書・03年)『ランニングウーマン』(情報センター出版局・96年)がある。その他、書籍の執筆や雑誌等への寄稿歴多数。取材・執筆のかたわら、2011年に地域メディアのグループを立ち上げ、リテラシー能力をいかに高めるか、またジャーナリズムとは何かを考えつつ、活動中。

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